秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから、『日本西教史』(ジャン・クラッセ著)には落城時に死亡とも母妻をともなって辺境の大名領地に落ち延びたともあり、平戸のリチャード・コックス日記には城内にて焼死とも薩摩・琉球に逃げたともあり、また、大坂城落城後に上方で「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童歌がはやったことなどから、秀頼は死亡しておらず秀吉恩顧の武将により密かに救出され落ち延びたとする脱出・生存の風説が流れたことがうかがえる。しかし真相は定かではない。
誰が秀頼を匿ったかについては、下記の島津家や加藤家など諸説がある。
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熊本城には「昭君の間」という部屋があり、ここが秀頼の居室であったとの伝承が残されている。
鹿児島県鹿児島市谷山に200人の落人があったがそれが秀頼と噂されたとあり、『左衞門佐君傳記稿』にはこのちに秀頼公の墳あると記す。
鹿児島県鹿児島市上福元町木之下に「伝秀頼公由緒地」の碑のある石塔の墓がある。
大分県日出町長流寺に伝秀頼の息子国松の五輪等の墓がある。
天草四郎の父親との説もある。天草四郎に豊臣秀綱という名があると鹿児島で伝えられている。
能登国輪島の天領庄屋・時国家の養子となったとの伝承が残されている。
「豊臣」姓とは「源」「平」「藤原」などと並ぶ本姓であるが、この本姓というものは「徳川」や「織田」、そして「羽柴」といった単なる名字・苗字とイコールではない(具体的には本姓、名字のそれぞれの項目を参照されたい)。
その本姓を用いた「豊臣秀頼」という名は、言うなれば「源義経=みなもとのよしつね」や「平将門=たいらのまさかど」と同じで、本姓の読みである「とよとみ」と名の読みである「ひでより」の間に所属を意味する「の」を入れて「豊臣秀頼=とよとみのひでより」とするのが正しいと言えるが、少なくとも現代では「とよとみひでより」と「の」は無しで呼ぶのが一般的となっている。