2009年12月17日

イオン交換樹脂

イオン交換樹脂(イオンこうかんじゅし)は、合成樹脂の一種で分子構造の一部にイオン基として電離する構造を持つ。
水などの溶媒中のイオンとイオン交換作用を示すが、その挙動はイオンに対する選択性に従う。イオン基の性質により、陽イオン交換樹脂と陰イオン交換樹脂に大別され、またその解離性により強酸・弱酸、強アルカリ・弱アルカリに分けられる。
イオン交換樹脂は、主に直径 1 ミリメートル弱の粒状で供給・利用されるが、その他にも繊維状や液状の製品もあり、膜状のものは特にイオン交換膜と呼ばれる。

高分子としての性質により非水溶性であるため、水に溶けない酸・アルカリと見なす事もできる。また、高分子の分子鎖が網目構造を取る事で、水やイオンの浸透が容易となり、活性炭などの吸着剤と同様、大きな比表面積を持つ。

イオン交換樹脂はその分子内に、交換されるイオンを放出する基(例:スルホ基)を持つ。一定量のイオン交換を行ったイオン交換樹脂はイオン交換能を失うが、交換させるイオンを含む水溶液に浸漬することで交換能力を再生することができる。

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最も一般的なイオン交換樹脂の構造はスチレン・ジビニルベンゼンの共重合体からなる母体を持つものである。ポリスチレン長鎖分子がジビニルベンゼンの架橋により立体的網目構造の樹脂を形成する。このためイオン交換樹脂は一見してビーズの様な粒であるが、内部は広い表面積を持つ。

イオン選択性は、常態では価数が大きく重いイオンほど大きく(イオン交換されやすく)なる。このため、水素イオンと水酸化物イオン(酸とアルカリ)で再生したイオン交換樹脂は、様々なイオンを水中から取り除く能力を持つ。フッ素イオンは水酸化物イオンより選択性が小さいため、イオン交換しにくい。

2009年12月01日

気候と自然

冬という季節が生まれるのは、太陽高度の差によって気温が変わることが大きな原因である。地球が地軸を傾けて公転しているために、同じ地点でも季節により太陽高度が変わり、太陽高度が低くなると冬になる。北半球が冬のときは南半球は太陽高度が高くなるため夏となり、南半球が冬のときは同様に北半球は夏となる。

赤道に近い低緯度地域では、季節による太陽高度の差が小さいので冬に目立った気象の変化はない。また、極地や高緯度地域では冬に太陽が昇らない極夜という現象が起こる。

また、その土地の標高や気団、海流、風などが冬の気候に影響を与えるため、同じ緯度にあっても冬の気候に差が出る。例えば、北緯43°付近にあるモナコでは1月の最低気温は8℃前後だが、同じ緯度にある旭川では同じ月に-12℃前後まで下がる。

日本では秋から次第に寒くなり、やがて野外で霜や雪など氷に関わる現象が見られるのが冬である。また、冬至までは昼間の時間は短くなり、夜が長くなる。

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シベリア高気圧が張り出し、西高東低の気圧配置になると、これを冬型の気圧配置といって、北西の季節風(北風)が強く吹き、日本海側では雪、太平洋側では空気が乾燥して晴れとなる。

それにつれて生物は活動を控え、冬眠や越冬に入る。落葉樹は葉を落とし、宿根草は地上部を枯らす。人間は防寒を主目的とした冬服に着替え、さらに襟巻きなどの防寒具を着用する。それでも弱い人は霜焼けを起こす。暖房器具を出すのも冬のこと、こたつやストーブに体を寄せ合う楽しみもある。それに起因する一酸化炭素中毒も冬によく発生する。

寒さが弱い冬を暖冬(だんとう)という。逆に寒さが厳しい冬を、厳冬(げんとう)や寒冬(かんとう)という。

2009年11月27日

イスラム教社会からの抗議

掲載された直後、デンマークのムスリムは反発した。10月12日にはアラブ諸国の11人の大使がデンマーク首相アナス・フォー・ラスムセンに「デンマーク国内の反イスラム教・反ムスリムキャンペーン」について話し合いをするため面会を求めたが、首相は「政府はマスコミにあなたたちの求めるような法的手段を取ることはできない」と面会を断った。既に10月17日にはエジプト紙エル・ファグル(El Fagr)が問題の風刺画を転載するなど、イスラム諸国に反発が広まりつつあった。

10月27日には、デンマーク国内のムスリム団体などが警察に、風刺画掲載は刑法違反であると告発した。(デンマーク刑法170条は、合法的にデンマークにある宗教の教義や崇拝に対し、何人も公開の場であざけったり感情を害させたりしてはならないと定めている。また266条bは、その宗教を理由に人々を脅かすような主張や情報を散布してはならないと定めている。)2006年1月6日、地元捜査官は、「この問題には表現の自由を考慮に入れなければならない。表現の自由があっても信仰の自由などに十分な配慮を行わない場合は該当の条項に違反するが、今回の場合は違反とはいえない」と捜査を打ち切った。

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こうしたムスリムの反風刺画の動きは、ムスリム団体へ脅迫の手紙が出されたり、ウィークエンド・アビセン誌による更に攻撃的な画像掲載につながったという。政府やユランズ・ポステンの対応に不満を持ったイマームたちは、問題の風刺画を掲載してデンマーク国内の状況を説明した43ページのパンフレットを作成し中東への旅に出た。2005年12月6日のイスラム諸国会議機構会議でこのパンフレットは各国代表に渡され、エジプト大使は後にこのパンフレットに基づきデンマーク外相に抗議した。そのパンフレットに掲載された「侮辱的な風刺画」の中には、勘違いによる他の画像や捏造された画像も混じっていたことが明らかになっている。

2009年11月13日

マルクス主義における絶対主義論

マルクス主義においては、絶対主義は封建社会と市民社会の過渡期に出現すると説明される。封建社会における支配階級であった貴族が没落し、市民社会の担い手であるブルジョワジーが勃興する中で、国王は両勢力の調停者として絶対的な権力を打ち立てるとする。

第二次世界大戦後、「絶対主義」「絶対王政」という概念の再検討が迫られた。その要因は、戦間期に出現したファシズム勢力を分析する必要が生じたことによる。単に絶対王政期の王権が絶対的であったとするだけでは、ファシズム政権における権力者との差異化が図れないため、ファシズム政権と比べれば、「絶対王政」期の王権には限界があったという見解が生じてくるのである。

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ファシズム政権が、大衆メディアの活用などを通じて国民一人一人を捕捉したのに対し、絶対王政下では国家の構成員一人一人にまで国家権力の支配が及んでいなかった。このように、社団国家論においては、王権の「絶対性」に疑問が示される。当時の社会においては、都市・ギルド・村落共同体など多くの自律的な団体が存在しており、国王の「絶対的」に見える権力は、こうした諸団体の利権を擁護する代償として成立していた。こうした国家を「社団国家」としてとらえ、この主権国家の第一段階としての社団国家が、市民革命の時代を経て「国民国家」へと発展していく、と説明される。

フランスの神学者ジャック=ペニーニュ・ボシュエは王権神授説を唱え、国王による支配権は、国王の先祖が神によって授けられたものであるから、国王が失政を行った場合もその責任を問われない。と説いた。また、イングランドでもロバート・フィルマーが『父権論(Patriarcha)』において同じ理論を唱えた。

2009年11月02日

生物の死骸やフンなどは

生物の死骸やフンなどは、さらにほかの動物に食べられたり、細菌、菌類などの働きによって分解されてゆく。生物を構成していた有機物は、やがて無機物と水と二酸化炭素まで分解され、ふたたび生産者に利用される日まで、自然の中を循環する。

食物連鎖の結果、生物に蓄積しやすい物質が上位捕食者に集中していく生物濃縮という現象が生じる。魚類に多く含まれているドコサヘキサエン酸や、フグ毒・貝毒などは、いずれも微生物によって合成された物質が食物連鎖過程で濃縮されたものである。
メロン伝説
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食物連鎖による生物濃縮は、ダイオキシン類、重金属、農薬等の有害物質が問題としてとりあげられることも多い。この問題はレイチェル・カーソンが著書『沈黙の春』で取り上げたことで有名になった。ヒトは地球上の食物連鎖に頂点に位置しており、食事を通じて生物濃縮によって蓄積された有害成分を摂取している[要出典]。汚染物質の排出源が特定・除去された後でも、土壌や湖沼の底質に蓄積されている汚染物質が食物連鎖によって濃縮されるため、暴露が長期にわたり継続する場合もある。

2009年10月23日

博物館法

博物館法(はくぶつかんほう、昭和26年(1951年)12月1日法律第285号)は、博物館について規定している日本の法律である。ただ、博物館法に規定されている博物館は、すべての博物館の中の一部を占めるにすぎない。

博物館法は、社会教育法(昭和24年法律第207号)の精神に基き、博物館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もって国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする(第1条)。

この法律において「博物館」とは、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む。)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(社会教育法による公民館及び図書館法(昭和25年法律第118号)による図書館を除く。)のうち、地方公共団体、一般社団法人若しくは一般財団法人、宗教法人又は政令で定めるその他の法人(日本赤十字社及び日本放送協会)が設置するもので、博物館が所在する都道府県の教育委員会の登録を受けたものをいう(第2条第1項)。
母への贈り物
目覚まし時計
雄大のスマイル
凌に意気投合
颯太スポーツ教室
アスパラガス
アレキサンドリア
ウータンのPC講座
オカリナ姫
おやじの心
カメムシ
くびれ復活大作戦
ゴマちゃんの靴
しし座流星群
スペシャルショートケーキ
だるまさんがころんだ
ドラミ地域で探す
ハイビスカス・ローゼル
ピーターパン
ふしぎ発見

公立博物館及び私立博物館の別については、地方公共団体の設置する博物館を公立博物館といい、一般社団法人若しくは一般財団法人、宗教法人又は政令で定める法人(日本赤十字社及び日本放送協会)の設置する博物館を私立博物館という(第2条第2項)。

2009年06月22日

心の生得性への進化心理学的視点

本能と理性や学習は対極にあるとみなされ、ヒトは本能が消失していると考えられることがあるが、しかし直観的推論や学習には次のような特性がある。

複雑に特殊化されていて適応問題を解くことができる
通常、全ての人に確実に発達する
意識的な努力無しでも発達する
認識せずとも作動する
知的に振る舞うと言うような他の一般的な能力とは明らかにことなる
プログラムの出力は一種の直観となってあらわれる。網膜の働きに意識的にアクセスできないように、その動作に気付くことはない[5]。
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

生まれと育ちのどちらが相対的に重要かという議論に対しては(他の認知科学者と同様に)進化心理学者は生まれか育ちか、本能か理性か、生得的か経験的か、生物学的か文化的かという単純な二分法を否定する。環境が個体に与える影響は、進化的に形作られた認知機構の詳細に強く依存する。環境の影響は生得論と一貫性がある。

全ての種には、種普遍的、種典型的な進化的に形作られた構造がある。しかしそれは(全く同一の胃が無いように)個性がないという意味ではない。「認知的構造」は遺伝子と環境の産物である。それは人間の(特に祖先の)通常の環境の範囲内では確実に発達するような性質を持っている。進化心理学者は発達において遺伝子が環境以上に、生得性が学習以上に重要な役割を果たすとは仮定しない[4]。

標準社会科学モデル [編集]
進化心理学者はヒトの心を空白の石版と仮定する経験主義を標準社会科学モデル(Standard Social Science Model、SSSM)と呼んで批判した。極端な行動主義もこれに含まれる。

しかしオペラント条件付けでさえ、報酬の頻度によって振る舞いを変えるような複雑な学習プログラムが無ければ働かない。古典的条件付けはより率直に多くのプログラムの存在を仮定する。どのような行動であれ、プログラムと環境からの入力の相互作用によって引き起こされる。

一部の人は、生まれた時から存在しないのであればそれは学習の結果であると見なす。しかし、例えば高所恐怖症は這うことができない赤ちゃんには存在しない。それは学習していないからだと主張できると同時に、自然選択が這うことができない赤ちゃんに高さへの忌避を与える必要がなかったからであるとも主張できる。

2009年06月05日

身分制議会(みぶんせいぎかい)とは

身分制議会(みぶんせいぎかい)とは、中世から近世にかけてヨーロッパに存在した議会のこと。近代以降の議会とは異なり、参加者は諸侯、聖職者、及び都市の代表などの特権身分層に限定され、これ以外の者の参加は許されなかった。フランスの三部会、イングランド議会、神聖ローマ帝国の帝国議会などが代表的である。

諸侯
聖職者
都市(ドイツにおいては帝国都市)
の代表であることが一般的である。これらの諸身分内における互選によって代表者が決定される。都市の代表は大商人、もしくはギルドの親方層であることが多い。ただし、これらの諸身分に加え、スウェーデン・デンマークなどのように農民が代表を送る国もあった。

近世まではこれら身分制議会の参加資格をもつ身分層を指してナティオ(Natio)と言った。

諮問と言っても常に国王の施策に賛同するとは限らない。イングランドでは王権の規制を目的として議会が作られた。

課税審議 [編集]
課税審議を巡って市民革命にまで発展した例が多い。清教徒革命、フランス革命等。

国王の選挙 [編集]
国王の選挙は選挙王制の場合に限る。国王の権力が大きかった西ヨーロッパのイギリスやフランスでは王朝の断絶時に新王家を国王として認めるか否かの審議が行われたのみで選挙は行われなかった。

ドイツではこの選挙を選帝侯に限定していたことに特色がある。

エルベ川以東の東ヨーロッパでは、権力の大きい王朝が断絶すると選挙によって王を選ぶ事は一般的であった。
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歴史 [編集]
12世紀末、イベリア半島のレオン王国に最初の身分制議会が成立した。その後13世紀になると、カスティーリャ王国・アラゴン王国などにも設けられ、続いてポルトガル・両シチリア王国、神聖ローマ帝国、イングランドなどでも開催された。14世紀に入るとフランス、さらにドイツの領邦やイタリアの都市国家などでも設けられた。15世紀には北欧・東欧にも拡大していった。

各国の議会 [編集]

イングランド [編集]
課税審査権などを行使して、経済面から王権を制限する役割を果たした。1341年に貴族や聖職者の代表で構成される上院と、騎士、都市の代表である下院によって構成される二院制が定められた。他国の身分制議会が身分制社会の解体とともにその役割を終えて新たに近代の議会を成立させたのに対し、イングランドでは中世の議会が市民革命を経て近代の議会へとそのまま移行していったことが特徴的である。

絶対王政の時代に入っても、テューダー朝の時代にはおおむね国王と議会の連携が見られていたが、17世紀初頭に成立したスチュアート朝の歴代国王が議会の存在を軽んじたため、国王と議会の対立構図が形成された。とりわけ、1629年から1640年までの11年間は議会が開催されなかった。

フランス [編集]
1302年、フランスの身分制議会である三部会が初めて開催された。アヴィニョン捕囚に際して国王の政策に賛同を与えることを目的として開催された。絶対王政下で官僚制が整備され国王直属の徴税機構が成立したことは身分制議会の役割を低下させ、1615年から1789年までの175年間全く議会は召集されなかった。ただし、当時の統治には様々な特権団体(社団)の協力が必要不可欠であり、国王が諸団体の利権を擁護しながら統治を行ったため、身分制議会をわざわざ開催する必要がないことも、長期に渡って議会が開かれなかった要因であった。

18世紀末に深刻な財政難に陥ったルイ16世が特権身分の免税特権廃止を図ると、彼らは特権剥奪に対して抵抗し再び三部会を開催した。しかし、こうした身分制社会の枠組み(アンシャン・レジーム)の打破を図る勢力が三部会から離れて国民議会を結成、フランス近代議会の起源となった。

ドイツ [編集]
帝国議会。帝国と各領邦、帝国都市間の調整機関の側面が強い。ヴェストファーレン条約によって封建領主の独立主権が認められると有名無実の存在となった。各領邦には帝国議会とは別個に領邦議会が存在した。

ポーランド [編集]
ポーランド王国では1572年にヤギェウォ朝が断絶すると、選挙王制に移行し、国王を選挙する身分制議会が極めて強い権力を握った。この状態は王政と言うよりもきわめて共和制に近く、この時代のポーランドを指して「共和国」(Republika)とも言う。

ハンガリー [編集]
ハンガリー王国では1526年にモハッチの戦いで国王のラヨシュ2世が戦死すると王朝が断絶し、以降ハプスブルグ家によってハンガリー王が勤められることが多くなった。ただしこれらハプスブルグの王も身分制議会による選挙王制に則って選出されており、以降もハンガリーの身分制議会は継続された。これはボヘミア王国やモラヴィア王国においても同じである。また、オーストリア継承戦争においてオーストリアが苦境に立たされハンガリーの加勢を求めるときも、マリア・テレジアはハンガリー身分制議会の賛同を得る必要があった。

北欧諸国 [編集]
北欧諸国では貴族、聖職者、ブルジョワジー、農民から成る四部会が敷かれていた。北欧諸国では、寒冷な気候のため生産性の低い土地であるため、封建制、農奴制あるいは寄生地主制の発達が妨げられた。そのため自由農民が育まれ、ものを言う農民の伝統があっため四番目の身分として農民が加えられた。ゲルマン法の影響を指摘する説もある。原則として各部会は対等の関係を保つ。しかし人口が極端に少ない貴族、聖職者が多数派であるブルジョワジー、農民と同等の拒否権を持つこと自体が、身分制における不平等の温床となった。近代社会への脱皮の時に、両院制あるいは一挙に一院制へ移行することで、議会制民主主義が成立させた。現在の北欧諸国の政党制においても、この四身分の影響が色濃く残っているのが観察される

2009年05月01日

秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者

秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから、『日本西教史』(ジャン・クラッセ著)には落城時に死亡とも母妻をともなって辺境の大名領地に落ち延びたともあり、平戸のリチャード・コックス日記には城内にて焼死とも薩摩・琉球に逃げたともあり、また、大坂城落城後に上方で「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童歌がはやったことなどから、秀頼は死亡しておらず秀吉恩顧の武将により密かに救出され落ち延びたとする脱出・生存の風説が流れたことがうかがえる。しかし真相は定かではない。

誰が秀頼を匿ったかについては、下記の島津家や加藤家など諸説がある。

夢あかり買物市場サーチ
プリスクール・海外留学関連教育ひろば検索
シェラトン ドライブ旅行サイト
どーるキレイ・美容サーチ
デュエット ビジネスオンライン
デリシャスライフスタイル市場情報
ガラムマサラ 医学プラザ全国情報ガイド
プラネットショッピングプラザサーチ
通信教育・生涯学習関連暮らしの学習全国情報ガイド
ガロガ 旅行・地域情報サイト

熊本城には「昭君の間」という部屋があり、ここが秀頼の居室であったとの伝承が残されている。
鹿児島県鹿児島市谷山に200人の落人があったがそれが秀頼と噂されたとあり、『左衞門佐君傳記稿』にはこのちに秀頼公の墳あると記す。
鹿児島県鹿児島市上福元町木之下に「伝秀頼公由緒地」の碑のある石塔の墓がある。
大分県日出町長流寺に伝秀頼の息子国松の五輪等の墓がある。
天草四郎の父親との説もある。天草四郎に豊臣秀綱という名があると鹿児島で伝えられている。
能登国輪島の天領庄屋・時国家の養子となったとの伝承が残されている。

「豊臣」姓とは「源」「平」「藤原」などと並ぶ本姓であるが、この本姓というものは「徳川」や「織田」、そして「羽柴」といった単なる名字・苗字とイコールではない(具体的には本姓、名字のそれぞれの項目を参照されたい)。

その本姓を用いた「豊臣秀頼」という名は、言うなれば「源義経=みなもとのよしつね」や「平将門=たいらのまさかど」と同じで、本姓の読みである「とよとみ」と名の読みである「ひでより」の間に所属を意味する「の」を入れて「豊臣秀頼=とよとみのひでより」とするのが正しいと言えるが、少なくとも現代では「とよとみひでより」と「の」は無しで呼ぶのが一般的となっている。

2009年04月17日

オイラトの台頭

イェスデルは、モンゴル高原の西北部に割拠するオイラト部族の支持を受けてハーンに即位するが1391年に死去した。これ以降、旧元朝のモンゴル諸部族は、四十モンゴル部(ドチン・モンゴル)と四オイラト部(ドルベン・オイラト)と呼ばれる2つの遊牧部族連合に分かれて、チンギス・ハーンの末裔の中から誰をハーンに擁立するかをめぐって争うようになった。モンゴル高原の西部に広がった四オイラトは、モンゴル帝国以前からモンゴル高原東北部に存在した由緒ある部族であるオイラトの長を盟主とし、親「アリクブケ家」の諸部族からなっていたのに対し、東部の四十モンゴルは親「クビライ家」の性格を有しており、チンギス裔のハーンを盟主とした。明は、四十モンゴルを、彼ら自身はモンゴルと自称するにもかかわらず、韃靼(タタール)と呼んだ。

やがてモンゴルのアスト部族長アルクタイが有力となり自派のハーンを立てるが、1410年に明の永楽帝による遠征軍に敗れ、かわってオイラト部族長マフムードが有力となった。永楽帝は次にオイラトに対する親征を行い、1414年にマフムードを破ったが、これにより再びアルクタイが勢力を盛り返した。さらに3度敢行され合計5度に渡った永楽帝の北伐と、アルクタイとマフムードの争いによって、15世紀前半のモンゴル高原は大いに混乱し、頻繁にハーンが取り替えられた。

1434年に至ってマフムードの子トゴンはアルクタイを滅ぼし、甘粛にいたチンギス・ハーンの子孫トクトア・ブハをハーンに立てた。トゴンはさらに敵対者を滅ぼし、モンゴル諸部族を屈服させるが1439年に死に、子のエセンがオイラトを継承した。エセンは明の正統帝を捕虜とし(土木の変)、西ではトルキスタンのモグーリスタン・ハン国やウズベクのアブールハイル・ハンなどのイスラム化したモンゴル系国家に戦勝してオイラトの覇権の最盛期を築いたが、1453年に「大元天聖大可汗」と称し自らハーンに即位したことをきっかけに人心を失い、1454年に内乱により殺された。エセンの敗死によりオイラトの覇権は崩壊したが、エセンは自らハーンとなる前にトクトア・ブハを始めチンギス・ハーンの血を引くものを皆殺しにしていたため、モンゴルの側も混乱が続いた。

元(北元)のモンゴルの再編 [編集]
1487年に至って、母がオイラトの出身であったためエセンの殺害を免れたバヤン・モンケの子で、当時存命していた唯一のクビライ裔の皇子であったバト・モンケがハーンに即位した。バト・モンケはダヤン・ハーンと称したが、この尊称ダヤンは「大元」の音写であるとされる。ダヤン・ハーンはオイラトを追ってモンゴル高原のほとんど全域に勢力を拡大すると、11人もうけた男子をモンゴルの諸部族の長に婿入りさせて各部族の首長につけた。ダヤン・ハーンとその直系の子孫はチャハル部を支配し、こうしてチャハル部の長が大ハーンとして、親族にあたる全モンゴルを統括する体制が築かれた。清代から現代に続くモンゴル諸部族の分布は、ダヤン・ハーンによるモンゴルの再編成をほぼ踏襲している。

1524年にダヤン・ハーンが死ぬと、ハーン位を継承すべき長男トロ・ボラトは既に死んでおり、トロ・ボラトの子でダヤン・ハーンによって継承者に指名されていたボディ・アラクが年少であった。このため、ハーン位はダヤン・ハーンの三男でオルドス部とトメト部を支配するバルス・ボラトが一時的にハーンに即位し、チャハル部によるモンゴルの統一政権は早くも揺らいだ。1542年には、バルス・ボラトの長男でオルドス部を継承していたグンビリクが死ぬと、グンビリクの弟でトメト部を継承していたアルタンが代わって有力となった。チャハルのボディ・アラク・ハーンは、アルタンを西部(右翼)のモンゴル諸部族の指導者と認めてトシェート・ハーン(トシェートは「補佐」の意)の称号を与え、モンゴルには複数のハーンが立つようになった。

1547年、チャハル部のボディ・アラク・ハーンが死ぬと、その子ダライスン・ハーンは、トメト部のアルタンの圧迫を避けて東方に移住し、アルタン・ハーンが大ハーンに代わってモンゴル高原全体の事実上の支配権を握った。

アルタンは北ではオイラトと戦ってモンゴル高原西部からジュンガリアに追いやり、南では明に連年遠征して略奪を繰り返した。また、ダライ・ラマ3世に帰依してチベット仏教のゲルク派に入信し、内モンゴルに支配下に入った漢民族の定住農民を集めて開いた都市フフホトに寺院を建立、モンゴルが仏教化するきっかけをつくった。

アルタンの死後、アルタンが一代で築き上げた勢力と財産をめぐってトメト部では内紛が起こり、ダヤン・ハーンによるモンゴルの一体化は無実化していった。漠北(外モンゴル)ではハルハ部がオイラトと戦って服属させ、現在のモンゴル国の領土のほとんどを支配下に収めるまでに成長していた。

元(北元)のハーンの消滅 [編集]
トメトを避けて大興安嶺山脈の東に移住したチャハルでは、1603年にリンダン・ハーンが即位した。リンダンはモンゴルの再統一を目指したが、東の女直(満州民族)の統一を進めるヌルハチが後金を立てると、後金と戦ったが次第に圧迫され、チャハルの周囲にいたモンゴル東部の諸部族は後金に降伏していった。1628年、リンダン・ハーンは後金に近い内モンゴル東部の支配に見切りをつけて西方への移動を開始し、内紛で弱体化していたトメトのアルタン・ハーン家を滅ぼしてフフホトを占領した。さらにリンダン・ハーンは外モンゴルのハルハ部を服属させ、百年ぶりにモンゴルの中西部のほとんどをチャハル部の支配下に置くことに成功するが、自身の帰依するカルマ派を支援するためチベットへの遠征に向かう途上の1634年に甘粛で死去した。

リンダン・ハーンの死によってチャハル部の覇権は瓦解し、満洲人(女真人)による後金軍がフフホトを占領した。1635年、リンダン・ハーンの遺児エジェイは後金に降伏し、元の玉璽(皇帝の印章)を後金のホンタイジに献上した。チャハルの降伏により、ダヤン・ハーンの再編したモンゴル部族連合のうち、漠北のハルハ諸部を除く全てが後金の支配下に入った。1636年、ホンタイジは満州、漢、モンゴルの3民族の推戴を受ける形式を取って大清国皇帝に即位し、この年以降、満州人である清の皇帝がモンゴルのハーンとして君臨することになった。

一方、清の支配下には入っていないハルハ諸部とオイラトは、この事態を受けて積年の対立に終止符をうち同盟を締結、1640年には部族間関系の取り決めをまとめたハルハ・オイラト法典を制定した。ハルハ諸部は清朝に対しては朝貢を行い、1655年には有力者8人がその冊封を受けて名目的に臣従することで清朝との間に安定した関係を築き、朝貢国としての内政自治を保持した。しかしながら、17世紀後半に至って、オイラトの覇権を握ったジュンガル部のガルダンがハルハに侵攻すると、ハルハはジュンガルの圧迫を避けて清に服属した。これにより、かつての元(北元)の故地のモンゴルは全て清の支配下に入った。

北元の皇帝 [編集]
恵宗トゴン・テムル(在位1333年 - 1370年)
昭宗アユルシリダラ(在位1370年 - 1378年)
天元帝トグス・テムル(在位1378年 - 1388年)
イェスデル(在位1388年 - 1391年)
エンケ・ハーン(在位1391年 - 1394年)
エルベク・ハーン(在位1394年 - 1399年)
クン・テムル(在位1399年 - 1402年)
グイリチ(在位1402年 - 1408年)
オルジェイ・テムル(在位1408年 - 1412年)
ダルバク・ハーン(在位1412年 - 1415年)
オイラダイ・ハーン(在位1415年 - 1425年)
アダイ・ハーン(在位1425年 - 1438年)
トクトア・ブハ(在位1438年 - 1451年)
天盛帝エセン・ハーン(在位1453年 - 1454年)
マルコルギス・ハーン(在位1455年 - 1465年)
モーラン・ハーン(在位1465年 - 1466年)
マンドールン・ハーン(在位1475年 - 1479年)
ボルフ・ジノン(在位1479年 - 1487年)
ダヤン・ハーン(在位1487年 - 1524年)
ボディ・アラク・ハーン(在位1524年 - 1547年)
ダライスン・ゴデン・ハーン(在位1551年 - 1557年)
トメン・ジャサクト・ハーン(在位1557年 - 1592年)
ブヤン・セチェン・ハーン(在位1592年 - 1603年)
リンダン・ハーン(在位1603年 - 1634年)

年号 [編集]
至順 1333年
元統 1333年 - 1335年
至元 1335年 - 1340年
至正 1341年 - 1370年
宣光 1371年 - 1378年
天元 1378年 - 1388年

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