2009年06月22日

心の生得性への進化心理学的視点

本能と理性や学習は対極にあるとみなされ、ヒトは本能が消失していると考えられることがあるが、しかし直観的推論や学習には次のような特性がある。

複雑に特殊化されていて適応問題を解くことができる
通常、全ての人に確実に発達する
意識的な努力無しでも発達する
認識せずとも作動する
知的に振る舞うと言うような他の一般的な能力とは明らかにことなる
プログラムの出力は一種の直観となってあらわれる。網膜の働きに意識的にアクセスできないように、その動作に気付くことはない[5]。
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

生まれと育ちのどちらが相対的に重要かという議論に対しては(他の認知科学者と同様に)進化心理学者は生まれか育ちか、本能か理性か、生得的か経験的か、生物学的か文化的かという単純な二分法を否定する。環境が個体に与える影響は、進化的に形作られた認知機構の詳細に強く依存する。環境の影響は生得論と一貫性がある。

全ての種には、種普遍的、種典型的な進化的に形作られた構造がある。しかしそれは(全く同一の胃が無いように)個性がないという意味ではない。「認知的構造」は遺伝子と環境の産物である。それは人間の(特に祖先の)通常の環境の範囲内では確実に発達するような性質を持っている。進化心理学者は発達において遺伝子が環境以上に、生得性が学習以上に重要な役割を果たすとは仮定しない[4]。

標準社会科学モデル [編集]
進化心理学者はヒトの心を空白の石版と仮定する経験主義を標準社会科学モデル(Standard Social Science Model、SSSM)と呼んで批判した。極端な行動主義もこれに含まれる。

しかしオペラント条件付けでさえ、報酬の頻度によって振る舞いを変えるような複雑な学習プログラムが無ければ働かない。古典的条件付けはより率直に多くのプログラムの存在を仮定する。どのような行動であれ、プログラムと環境からの入力の相互作用によって引き起こされる。

一部の人は、生まれた時から存在しないのであればそれは学習の結果であると見なす。しかし、例えば高所恐怖症は這うことができない赤ちゃんには存在しない。それは学習していないからだと主張できると同時に、自然選択が這うことができない赤ちゃんに高さへの忌避を与える必要がなかったからであるとも主張できる。

2009年06月05日

身分制議会(みぶんせいぎかい)とは

身分制議会(みぶんせいぎかい)とは、中世から近世にかけてヨーロッパに存在した議会のこと。近代以降の議会とは異なり、参加者は諸侯、聖職者、及び都市の代表などの特権身分層に限定され、これ以外の者の参加は許されなかった。フランスの三部会、イングランド議会、神聖ローマ帝国の帝国議会などが代表的である。

諸侯
聖職者
都市(ドイツにおいては帝国都市)
の代表であることが一般的である。これらの諸身分内における互選によって代表者が決定される。都市の代表は大商人、もしくはギルドの親方層であることが多い。ただし、これらの諸身分に加え、スウェーデン・デンマークなどのように農民が代表を送る国もあった。

近世まではこれら身分制議会の参加資格をもつ身分層を指してナティオ(Natio)と言った。

諮問と言っても常に国王の施策に賛同するとは限らない。イングランドでは王権の規制を目的として議会が作られた。

課税審議 [編集]
課税審議を巡って市民革命にまで発展した例が多い。清教徒革命、フランス革命等。

国王の選挙 [編集]
国王の選挙は選挙王制の場合に限る。国王の権力が大きかった西ヨーロッパのイギリスやフランスでは王朝の断絶時に新王家を国王として認めるか否かの審議が行われたのみで選挙は行われなかった。

ドイツではこの選挙を選帝侯に限定していたことに特色がある。

エルベ川以東の東ヨーロッパでは、権力の大きい王朝が断絶すると選挙によって王を選ぶ事は一般的であった。
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歴史 [編集]
12世紀末、イベリア半島のレオン王国に最初の身分制議会が成立した。その後13世紀になると、カスティーリャ王国・アラゴン王国などにも設けられ、続いてポルトガル・両シチリア王国、神聖ローマ帝国、イングランドなどでも開催された。14世紀に入るとフランス、さらにドイツの領邦やイタリアの都市国家などでも設けられた。15世紀には北欧・東欧にも拡大していった。

各国の議会 [編集]

イングランド [編集]
課税審査権などを行使して、経済面から王権を制限する役割を果たした。1341年に貴族や聖職者の代表で構成される上院と、騎士、都市の代表である下院によって構成される二院制が定められた。他国の身分制議会が身分制社会の解体とともにその役割を終えて新たに近代の議会を成立させたのに対し、イングランドでは中世の議会が市民革命を経て近代の議会へとそのまま移行していったことが特徴的である。

絶対王政の時代に入っても、テューダー朝の時代にはおおむね国王と議会の連携が見られていたが、17世紀初頭に成立したスチュアート朝の歴代国王が議会の存在を軽んじたため、国王と議会の対立構図が形成された。とりわけ、1629年から1640年までの11年間は議会が開催されなかった。

フランス [編集]
1302年、フランスの身分制議会である三部会が初めて開催された。アヴィニョン捕囚に際して国王の政策に賛同を与えることを目的として開催された。絶対王政下で官僚制が整備され国王直属の徴税機構が成立したことは身分制議会の役割を低下させ、1615年から1789年までの175年間全く議会は召集されなかった。ただし、当時の統治には様々な特権団体(社団)の協力が必要不可欠であり、国王が諸団体の利権を擁護しながら統治を行ったため、身分制議会をわざわざ開催する必要がないことも、長期に渡って議会が開かれなかった要因であった。

18世紀末に深刻な財政難に陥ったルイ16世が特権身分の免税特権廃止を図ると、彼らは特権剥奪に対して抵抗し再び三部会を開催した。しかし、こうした身分制社会の枠組み(アンシャン・レジーム)の打破を図る勢力が三部会から離れて国民議会を結成、フランス近代議会の起源となった。

ドイツ [編集]
帝国議会。帝国と各領邦、帝国都市間の調整機関の側面が強い。ヴェストファーレン条約によって封建領主の独立主権が認められると有名無実の存在となった。各領邦には帝国議会とは別個に領邦議会が存在した。

ポーランド [編集]
ポーランド王国では1572年にヤギェウォ朝が断絶すると、選挙王制に移行し、国王を選挙する身分制議会が極めて強い権力を握った。この状態は王政と言うよりもきわめて共和制に近く、この時代のポーランドを指して「共和国」(Republika)とも言う。

ハンガリー [編集]
ハンガリー王国では1526年にモハッチの戦いで国王のラヨシュ2世が戦死すると王朝が断絶し、以降ハプスブルグ家によってハンガリー王が勤められることが多くなった。ただしこれらハプスブルグの王も身分制議会による選挙王制に則って選出されており、以降もハンガリーの身分制議会は継続された。これはボヘミア王国やモラヴィア王国においても同じである。また、オーストリア継承戦争においてオーストリアが苦境に立たされハンガリーの加勢を求めるときも、マリア・テレジアはハンガリー身分制議会の賛同を得る必要があった。

北欧諸国 [編集]
北欧諸国では貴族、聖職者、ブルジョワジー、農民から成る四部会が敷かれていた。北欧諸国では、寒冷な気候のため生産性の低い土地であるため、封建制、農奴制あるいは寄生地主制の発達が妨げられた。そのため自由農民が育まれ、ものを言う農民の伝統があっため四番目の身分として農民が加えられた。ゲルマン法の影響を指摘する説もある。原則として各部会は対等の関係を保つ。しかし人口が極端に少ない貴族、聖職者が多数派であるブルジョワジー、農民と同等の拒否権を持つこと自体が、身分制における不平等の温床となった。近代社会への脱皮の時に、両院制あるいは一挙に一院制へ移行することで、議会制民主主義が成立させた。現在の北欧諸国の政党制においても、この四身分の影響が色濃く残っているのが観察される

2009年05月01日

秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者

秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから、『日本西教史』(ジャン・クラッセ著)には落城時に死亡とも母妻をともなって辺境の大名領地に落ち延びたともあり、平戸のリチャード・コックス日記には城内にて焼死とも薩摩・琉球に逃げたともあり、また、大坂城落城後に上方で「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童歌がはやったことなどから、秀頼は死亡しておらず秀吉恩顧の武将により密かに救出され落ち延びたとする脱出・生存の風説が流れたことがうかがえる。しかし真相は定かではない。

誰が秀頼を匿ったかについては、下記の島津家や加藤家など諸説がある。

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熊本城には「昭君の間」という部屋があり、ここが秀頼の居室であったとの伝承が残されている。
鹿児島県鹿児島市谷山に200人の落人があったがそれが秀頼と噂されたとあり、『左衞門佐君傳記稿』にはこのちに秀頼公の墳あると記す。
鹿児島県鹿児島市上福元町木之下に「伝秀頼公由緒地」の碑のある石塔の墓がある。
大分県日出町長流寺に伝秀頼の息子国松の五輪等の墓がある。
天草四郎の父親との説もある。天草四郎に豊臣秀綱という名があると鹿児島で伝えられている。
能登国輪島の天領庄屋・時国家の養子となったとの伝承が残されている。

「豊臣」姓とは「源」「平」「藤原」などと並ぶ本姓であるが、この本姓というものは「徳川」や「織田」、そして「羽柴」といった単なる名字・苗字とイコールではない(具体的には本姓、名字のそれぞれの項目を参照されたい)。

その本姓を用いた「豊臣秀頼」という名は、言うなれば「源義経=みなもとのよしつね」や「平将門=たいらのまさかど」と同じで、本姓の読みである「とよとみ」と名の読みである「ひでより」の間に所属を意味する「の」を入れて「豊臣秀頼=とよとみのひでより」とするのが正しいと言えるが、少なくとも現代では「とよとみひでより」と「の」は無しで呼ぶのが一般的となっている。

2009年04月17日

オイラトの台頭

イェスデルは、モンゴル高原の西北部に割拠するオイラト部族の支持を受けてハーンに即位するが1391年に死去した。これ以降、旧元朝のモンゴル諸部族は、四十モンゴル部(ドチン・モンゴル)と四オイラト部(ドルベン・オイラト)と呼ばれる2つの遊牧部族連合に分かれて、チンギス・ハーンの末裔の中から誰をハーンに擁立するかをめぐって争うようになった。モンゴル高原の西部に広がった四オイラトは、モンゴル帝国以前からモンゴル高原東北部に存在した由緒ある部族であるオイラトの長を盟主とし、親「アリクブケ家」の諸部族からなっていたのに対し、東部の四十モンゴルは親「クビライ家」の性格を有しており、チンギス裔のハーンを盟主とした。明は、四十モンゴルを、彼ら自身はモンゴルと自称するにもかかわらず、韃靼(タタール)と呼んだ。

やがてモンゴルのアスト部族長アルクタイが有力となり自派のハーンを立てるが、1410年に明の永楽帝による遠征軍に敗れ、かわってオイラト部族長マフムードが有力となった。永楽帝は次にオイラトに対する親征を行い、1414年にマフムードを破ったが、これにより再びアルクタイが勢力を盛り返した。さらに3度敢行され合計5度に渡った永楽帝の北伐と、アルクタイとマフムードの争いによって、15世紀前半のモンゴル高原は大いに混乱し、頻繁にハーンが取り替えられた。

1434年に至ってマフムードの子トゴンはアルクタイを滅ぼし、甘粛にいたチンギス・ハーンの子孫トクトア・ブハをハーンに立てた。トゴンはさらに敵対者を滅ぼし、モンゴル諸部族を屈服させるが1439年に死に、子のエセンがオイラトを継承した。エセンは明の正統帝を捕虜とし(土木の変)、西ではトルキスタンのモグーリスタン・ハン国やウズベクのアブールハイル・ハンなどのイスラム化したモンゴル系国家に戦勝してオイラトの覇権の最盛期を築いたが、1453年に「大元天聖大可汗」と称し自らハーンに即位したことをきっかけに人心を失い、1454年に内乱により殺された。エセンの敗死によりオイラトの覇権は崩壊したが、エセンは自らハーンとなる前にトクトア・ブハを始めチンギス・ハーンの血を引くものを皆殺しにしていたため、モンゴルの側も混乱が続いた。

元(北元)のモンゴルの再編 [編集]
1487年に至って、母がオイラトの出身であったためエセンの殺害を免れたバヤン・モンケの子で、当時存命していた唯一のクビライ裔の皇子であったバト・モンケがハーンに即位した。バト・モンケはダヤン・ハーンと称したが、この尊称ダヤンは「大元」の音写であるとされる。ダヤン・ハーンはオイラトを追ってモンゴル高原のほとんど全域に勢力を拡大すると、11人もうけた男子をモンゴルの諸部族の長に婿入りさせて各部族の首長につけた。ダヤン・ハーンとその直系の子孫はチャハル部を支配し、こうしてチャハル部の長が大ハーンとして、親族にあたる全モンゴルを統括する体制が築かれた。清代から現代に続くモンゴル諸部族の分布は、ダヤン・ハーンによるモンゴルの再編成をほぼ踏襲している。

1524年にダヤン・ハーンが死ぬと、ハーン位を継承すべき長男トロ・ボラトは既に死んでおり、トロ・ボラトの子でダヤン・ハーンによって継承者に指名されていたボディ・アラクが年少であった。このため、ハーン位はダヤン・ハーンの三男でオルドス部とトメト部を支配するバルス・ボラトが一時的にハーンに即位し、チャハル部によるモンゴルの統一政権は早くも揺らいだ。1542年には、バルス・ボラトの長男でオルドス部を継承していたグンビリクが死ぬと、グンビリクの弟でトメト部を継承していたアルタンが代わって有力となった。チャハルのボディ・アラク・ハーンは、アルタンを西部(右翼)のモンゴル諸部族の指導者と認めてトシェート・ハーン(トシェートは「補佐」の意)の称号を与え、モンゴルには複数のハーンが立つようになった。

1547年、チャハル部のボディ・アラク・ハーンが死ぬと、その子ダライスン・ハーンは、トメト部のアルタンの圧迫を避けて東方に移住し、アルタン・ハーンが大ハーンに代わってモンゴル高原全体の事実上の支配権を握った。

アルタンは北ではオイラトと戦ってモンゴル高原西部からジュンガリアに追いやり、南では明に連年遠征して略奪を繰り返した。また、ダライ・ラマ3世に帰依してチベット仏教のゲルク派に入信し、内モンゴルに支配下に入った漢民族の定住農民を集めて開いた都市フフホトに寺院を建立、モンゴルが仏教化するきっかけをつくった。

アルタンの死後、アルタンが一代で築き上げた勢力と財産をめぐってトメト部では内紛が起こり、ダヤン・ハーンによるモンゴルの一体化は無実化していった。漠北(外モンゴル)ではハルハ部がオイラトと戦って服属させ、現在のモンゴル国の領土のほとんどを支配下に収めるまでに成長していた。

元(北元)のハーンの消滅 [編集]
トメトを避けて大興安嶺山脈の東に移住したチャハルでは、1603年にリンダン・ハーンが即位した。リンダンはモンゴルの再統一を目指したが、東の女直(満州民族)の統一を進めるヌルハチが後金を立てると、後金と戦ったが次第に圧迫され、チャハルの周囲にいたモンゴル東部の諸部族は後金に降伏していった。1628年、リンダン・ハーンは後金に近い内モンゴル東部の支配に見切りをつけて西方への移動を開始し、内紛で弱体化していたトメトのアルタン・ハーン家を滅ぼしてフフホトを占領した。さらにリンダン・ハーンは外モンゴルのハルハ部を服属させ、百年ぶりにモンゴルの中西部のほとんどをチャハル部の支配下に置くことに成功するが、自身の帰依するカルマ派を支援するためチベットへの遠征に向かう途上の1634年に甘粛で死去した。

リンダン・ハーンの死によってチャハル部の覇権は瓦解し、満洲人(女真人)による後金軍がフフホトを占領した。1635年、リンダン・ハーンの遺児エジェイは後金に降伏し、元の玉璽(皇帝の印章)を後金のホンタイジに献上した。チャハルの降伏により、ダヤン・ハーンの再編したモンゴル部族連合のうち、漠北のハルハ諸部を除く全てが後金の支配下に入った。1636年、ホンタイジは満州、漢、モンゴルの3民族の推戴を受ける形式を取って大清国皇帝に即位し、この年以降、満州人である清の皇帝がモンゴルのハーンとして君臨することになった。

一方、清の支配下には入っていないハルハ諸部とオイラトは、この事態を受けて積年の対立に終止符をうち同盟を締結、1640年には部族間関系の取り決めをまとめたハルハ・オイラト法典を制定した。ハルハ諸部は清朝に対しては朝貢を行い、1655年には有力者8人がその冊封を受けて名目的に臣従することで清朝との間に安定した関係を築き、朝貢国としての内政自治を保持した。しかしながら、17世紀後半に至って、オイラトの覇権を握ったジュンガル部のガルダンがハルハに侵攻すると、ハルハはジュンガルの圧迫を避けて清に服属した。これにより、かつての元(北元)の故地のモンゴルは全て清の支配下に入った。

北元の皇帝 [編集]
恵宗トゴン・テムル(在位1333年 - 1370年)
昭宗アユルシリダラ(在位1370年 - 1378年)
天元帝トグス・テムル(在位1378年 - 1388年)
イェスデル(在位1388年 - 1391年)
エンケ・ハーン(在位1391年 - 1394年)
エルベク・ハーン(在位1394年 - 1399年)
クン・テムル(在位1399年 - 1402年)
グイリチ(在位1402年 - 1408年)
オルジェイ・テムル(在位1408年 - 1412年)
ダルバク・ハーン(在位1412年 - 1415年)
オイラダイ・ハーン(在位1415年 - 1425年)
アダイ・ハーン(在位1425年 - 1438年)
トクトア・ブハ(在位1438年 - 1451年)
天盛帝エセン・ハーン(在位1453年 - 1454年)
マルコルギス・ハーン(在位1455年 - 1465年)
モーラン・ハーン(在位1465年 - 1466年)
マンドールン・ハーン(在位1475年 - 1479年)
ボルフ・ジノン(在位1479年 - 1487年)
ダヤン・ハーン(在位1487年 - 1524年)
ボディ・アラク・ハーン(在位1524年 - 1547年)
ダライスン・ゴデン・ハーン(在位1551年 - 1557年)
トメン・ジャサクト・ハーン(在位1557年 - 1592年)
ブヤン・セチェン・ハーン(在位1592年 - 1603年)
リンダン・ハーン(在位1603年 - 1634年)

年号 [編集]
至順 1333年
元統 1333年 - 1335年
至元 1335年 - 1340年
至正 1341年 - 1370年
宣光 1371年 - 1378年
天元 1378年 - 1388年

ストレッ ハダール ハルジ ハーネス みずあ カトレヤ まぐわ 夏の月 ガイド 紫色カリフ ティング インディオ ショーアップ プルデン ソイビーン ソリスト レール アモチ コピー 繊細 スケジュー ダンボ 手まりか テルル 白いブランコ メデリン スターチス なめねこ ロット ピクノジェ ミラー 幸せの色 オドメー パンパス パイプ 5匹の子 はなびし ムーム レプチン スペンス チャリヤ ウルトラ ライン ハンドボ ツインベッド わにがわ スロット ドルユーザ トリオット チーズ

2009年04月02日

オタネニンジン

オタネニンジン (御種人参・学名Panax ginseng) は、ウコギ科の多年草で、薬用植物として知られ、チョウセンニンジン(朝鮮人参)、コウライニンジン(高麗人参)、単にニンジンとも呼ばれる。ニンジン(人参)の名称は、枝分かれした根の形が人間の姿を思わせることに由来する。食用でサラダ等に用いられるセリ科のニンジンとは全く別物で区別されており、英名では「ginseng」で「carrot」と名前から根本的に別種と扱っている。
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原産地は中国の遼東から朝鮮半島にかけての地域とされ、中国東北部やロシア沿海州にかけて自生する。現在、全体の70%以上が韓国と中国で栽培されているが、日本でも江戸時代から栽培されている。 日本では古くから「朝鮮人参」と呼ばれてきたが、韓国においては単に「人参」(正確には「人蔘」)(インサム、인삼)と呼ぶ。韓国ではニンジンは「唐根」(タングン、당근)と呼び、明確に区別する。土産物用、輸出用の人参製品には「高麗人参」(コリョインサム、고려인삼)と表記されるが、これは現在の韓国で「朝鮮」という呼称を忌避しているためである。なお、「高麗」はかつて朝鮮に存在した統一王朝の名称であり、公式には高麗時代から栽培が始まったと考えられるため、「高麗人参」と呼ぶという説明がなされている。

戦後、日本の人参取扱業者は輸入元の韓国に配慮して「朝鮮」の語を避けて「薬用人参」と専ら称してきたが、「薬用」の名称が薬事法に抵触するとする行政指導を受け、呼称を「高麗人参」に切り替えた。「高麗人参」の呼称は当初なじみが薄かったものの、現在では消費者にも広く普及している。

「御種人参」の名は、江戸幕府の八代将軍徳川吉宗が対馬藩に命じて試植。その後各地の大名に種を分け栽培を奨励したことに由来すると伝えられている。

産地 [編集]
古くから薬効が知られ珍重されていたが、栽培は困難であり18世紀はじめの李氏朝鮮で初めて成功した。韓国では忠清南道錦山郡と仁川広域市江華郡、北朝鮮では開城が産地として有名。中国では長白山(白頭山)の麓で「長白山人参」として栽培される。日本では福島県会津地方、長野県東信地方、島根県松江市大根島(旧八束町)などが産地として知られる。 栽培にはおよそ四年ほどの月日を掛けた上で収穫されるが六年根も存在する。

栽培物より天然物の方が薬効が強いが、野生の人参の採取は非常に困難であり、産地でも高値で取引されている。

利用法
主要な薬用部位は根で有用成分はジンセノサイドとよばれるサポニン群であり、滋養強壮に効能があり、古くから飲用されてきた。血圧を高める効能があるため、高血圧の人は控えるべきであると言われてきた。しかし、血圧の高い人が飲むと下がるという報告もあり、実際は体に合わせて調整作用があるともいわれている。また、自律神経の乱れを整える作用もある。

皮を剥ぎ、根を天日で乾燥させたものを白参(はくじん、ペクサム、백삼)、皮を剥がずに湯通ししてから乾燥させたものを紅参(こうじん、ホンサム、홍삼)ということもある。なお、日本薬局方においては、根を蒸したものを紅参としている。他に、濃い砂糖水に漬け込んでから乾燥させる糖参もあり、白参に分類される。

江戸時代には大変に高価な生薬で、庶民には高嶺の花だった。このため、分不相応なほど高額な治療を受けることを戒める「人参飲んで首括る」のことわざも生まれた。

韓国では煎じたものを人参茶(インサムチャ)として飲用したり、サムゲタンなどの料理にも利用するほか、乾燥させる前の「水参」(スサム、수삼)をスライスして蜂蜜につけて食べたりもする。人参入りの栄養ドリンクやガム、石鹸なども市販されている。人参石鹸は韓国土産の定番でもある。釜山の港の売店には高麗人参味のハイチュウが売られているとの情報もある[要出典]。日本においては、韓国料理の材料として用いられる他、天ぷらの材料とする事がある。

北朝鮮では開城の人参酒が主要な輸出品となっており、韓国でも京畿道坡州市の烏頭山統一展望台などで購入できる。

保護の現状 [編集]
ロシア連邦産のものはワシントン条約の附属書II類に指定されている。

その他 [編集]
ウコギ科の薬用植物には他にアメリカニンジン(花旗参)、トチバニンジン(竹節人参)、サンシチニンジン(田七人参)、エゾウコギなどがある。 一部ではこれらから抽出し精製したものを『ジンセン』などと呼称している。が、『ジンセン』とは本来、朝鮮人参から抽出されたエキスである。

独参湯:人参のみで構成された漢方方剤。通常、漢方では複数の生薬を組み合わせて用いるため、人参を単独で用いる本方は、特異な処方である。

2009年03月19日

カナイマ国立公園

カナイマ国立公園(カナイマこくりつこうえん,Canaima)はベネズエラにある国立公園。
おっくうこ リモデル ユズ ミドル マナ マスク スギラ フラフー フライング バスター コブラ フランジ モンキ 水平線 ジンジャー テーゼ なんぶ セリンリン アランス トブツ マイスタ オレゴンオイ ビヌーボー シルバ トレサパ プロセニ フィンエァ デフォルト ブギウギ ソマリア かぶき バイタル ガーネット ミラーボ ケンタウ バラライカ セクサ マダガス バチスト サポナリア ハンドル ストック スファレ イ長調 ミナレ ならく たびだち イージス スリリース ピクルス

1962年にベネズエラの国立公園に指定されている。1994年、ユネスコの世界遺産(自然遺産)として登録されている。未だに人類未踏の場所が点在し、世界最後の秘境ともいわれる。

地理 [編集]
面積は、30,000km2以上である。関東地方(東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、茨城県、群馬県、栃木県)より少し狭い程度。四国の約1.6倍である。テーブルマウンテンが大小100余りジャングルに浮かぶ一帯があり、ギアナ高地と呼ばれている。この地帯は、プレートテクトニクスの影響をほとんど受けていないため、約20億年前の地質がそのまま残っていると考えられている。

公園の北西部には、テーブルマウンテンアウヤンテプイがある。ここには世界最大の落差979mを持つエンジェルフォールがある。また公園内最高峰のテーブルマウンテンロライマ山は、一般のトレッカーが登ることができる。

ロライマ山の近くには、3,000km2ほどのサバンナ地帯(ラ・グラン・サバナ)が広がっている。ラ・グラン・サバナには、川床が宝石の一種の一枚岩になっているハスペの滝やアラペナメルー滝がある。

気候 [編集]
典型的な熱帯気候。12月から5月までが乾季で、6月から11月が雨季。カリブ海からの湿った風がギアナ高地に吹き込んでおり、一帯にジャングルを形成している。常に、ジャングルの上に雲が浮かび、衛星写真で地形を把握することが困難とも言われている。

登録基準 [編集]
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

(7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
(8) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。
(9) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
(10) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。

2009年03月03日

幻獣拳

激獣拳や臨獣拳を超える「極みの拳」とされる獣拳で、物語中盤から登場する。臨獣拳を極めた者の内「獣の力を超えた」者の中で、「この世に13体存在する神秘と幽幻の獣・幻獣」に学んだ者により構成される。13の流派が存在し、幻獣王を筆頭に補佐の四幻将、その配下に2人の双幻士が流派の筆頭として存在する。臨獣拳から派生したためか、全員腹部に臨獣拳のものと同じレリーフをしているが、金色をした派手なものになっている。

幻獣拳の基本は「幻気(げんき)」である。幻獣拳使いとなるには、幻気と対象者の臨気を融合させる「血盟の儀式」が必要。血盟で幻獣拳士となった者は、その代償として輪廻の苦しみを味わう「無限道」に落ちるとされる。

幻獣拳の拳は、その名が示すとおり全て空想上の動物で構成される。

激獣拳ビーストアーツ / スクラッチ

ゲキレンジャー
ジャン・レツ(ゴウ)・ランの3人の苗字の頭文字を合わせると「カンフー」(かん・ふ・う)になる。

漢堂ジャン(かんどう ジャン) / ゲキレッド
キャッチフレーズ:身体に漲る、無限の力 “アンブレイカブル・ボディ”(スーパーゲキレッド時は「過激にアンブレイカブル・ボディ」)
幼少の頃から樹海で虎に育てられた野生児。そのため身元・本名は不明で「漢堂ジャン」は自称。ただし、後に見つかった両親の遺品のペンダントなどから、少なくとも「ジャン」は本名であることが分かる。久しく人間と接していなかったため一般常識は乏しく、好奇心旺盛だが精神的には幼い。その分純真無垢で明朗な性格で、弱きを助け悪を憎む正義の心の持ち主。野生児ゆえに「体力」は抜群。また、感情や周囲の状況を鋭敏に受け取る感覚を持つが、頭ではなく体で感受しているため「ニキニキ」などといった「ジャン語」と呼ばれる独特の言語によって表現する。好物はなつめに作ってもらった豚の角煮やメンチカツといった肉料理。
生まれ持った強烈な激気を美希に見出され、激獣タイガー拳を学ぶと同時にラン・レツと共にゲキレンジャーとして戦うようになり、身元が判明するまではスクラッチ社が身元を引受けることとなる。課題は人と数多く触れ合い、その「心」を成長させること。獣拳合体を始めとするパワーアップのきっかけを掴むことがメンバー中で1番早く、そういった面では他のメンバーを引っ張る存在である。
理央はジャンが自らを唯一下した相手である「白虎の男」の関係者と推測。その推測通りジャンは「白虎の男」ことダンの息子で、樹海の中で暮らしていたのは幼少の頃に暮らしていた獣源郷の近くの村が、15年前に土砂崩れで壊滅したため。これは証拠隠滅を図ったロンが引き起こしたもので、母ナミはジャンを逃がした後、ロンにより殺されている。その直後濁流にのまれたショックでジャンは記憶を無くしたのだろうと美希は推測している。
宇崎ラン(うざき ラン) / ゲキイエロー
キャッチフレーズ:日々是精進、心を磨く “オネスト・ハート”(スーパーゲキイエロー時は「過激にオネスト・ハート」)
強き正義の「心」の持ち主で激獣チーター拳の使い手。激獣拳を学ぶ前は陸上の選手をしていたためジャンを凌ぐ俊足で、スピードを生かした戦法を得意とする。ある時にシャーフーと出会い自分の力を人のために役立てたいということから激獣拳への道を選んだ。曲がったことを嫌う真面目でストレートで男勝りな性格。自分と反対の考えを持つレツとは口論になることもある。「根性」が口癖の努力家であるが、根性だけでは克服できないこともあるため、今後の課題はその「技」を磨くこと。食事は中華料理を好む。
大地主の1人娘で、スクラッチには社会勉強という名目で入社していた。母の伶子からお見合いを持ちかけられるも、伶子の考えを変えることに成功する。
深見レツ(ふかみ レツ) / ゲキブルー
キャッチフレーズ:技が彩る大輪の花 “ファンタスティック・テクニック”(スーパーゲキブルー時は「過激にファンタスティック・テクニック」)、酒が彩る大輪の花(酔拳時)
優れた「技」の持ち主で激獣ジャガー拳の使い手。あらゆる格闘技に精通する理論派で、常に新しい技を追い求めている。酒に酔うと「ジャガー酔拳」なる拳法を使用する。自分のことを「才能がある」と言ってはばからず、技の未熟な者に対しては冷たい態度をとりがちだが、根底には激獣拳に対する熱い心を持つ。反面、ネガティブな発言をすることもあり、多少悲観的な部分がある様子。華麗な技で敵を翻弄し時には敵すら魅了するが、体力面に難があるため今後の課題は「体」を鍛えること。食事は好きなものは後で食べるタイプ(ラーメンのチャーシュー、ショートケーキのイチゴなど)。
かつてゴウと共に教会で育てられていた。また、若き天才画家として嘱望されていたが、ゴウが愛した激獣拳に感動を求め、スクラッチに入社した。
深見ゴウ(ふかみ ゴウ) / ゲキバイオレット
キャッチフレーズ:紫激気(刺激)、俺流、わが意を尽くす “アイアン・ウィル”
物語中盤より登場。亡くなったと思われていたレツの兄。かつて臨獣拳に走ろうとした兄弟弟子の理央を止めるために「獣獣全身変」を使い、そのまま消息を絶っていた。10数年の失踪中の記憶は無く、技の代償として歳も取っていない。狼男の姿でゲキレンジャーの前に現れ襲い掛かるが、「獣獣全身変」が不完全だったため正気を取り戻し本来の姿に戻る。
一見協調性が無いように見えて、その実優しい性格の持ち主。口癖は「参ったぜ」や「なんてこった」。失踪する前には戦いに巻き込みたくないがゆえに、レツに激獣拳を学ぶことを禁じる約束をしており、レツが激獣拳を学んでいることを知り辞めさせようとするも、レツの成長と戦闘センスを見て激獣拳の拳士として認めるようになる。理央とは強い友情で結ばれており、道を踏み外した時には彼を止めるようにという約束も交わしていた。しかし一方では理央にライバルとして見て欲しかったというコンプレックスも抱いている。食事は好きなものから食べるタイプ。また方向音痴でもあり、1人で道に迷うといった愛嬌のある一面もある。
修行の段階で激気ではなく、「紫激気(しげき)」を身につけたため、激気に合わせて作られたゲキチェンジャーでは紫激気と合わず変身できなかったが、美希が紫激気用に開発していたゴングチェンジャーによりゲキバイオレットとなる。ムエタイのような構えをとる独自の拳法を使い、当初はその拳法を「獣拳深見流・ウルフ拳」と称するが、ゲキバイオレットとなってからは「激獣ウルフ拳」と改める。
久津ケン(ひさつ ケン) / ゲキチョッパー
キャッチフレーズ:才を磨いて、己の未来を切り開く “アメイジング・アビリティ”
物語中盤より登場。激獣拳最古の拳の1つで空手のような構えを取る激獣ライノセラス拳の使い手。なお、演じる聡太郎は松濤館流空手の有段者で、劇中ではそれを生かしたアクションが見られる。獣拳の聖地・獣源郷で修行していた。スクラッチマイスターズ社の社員を父に持ち、彼の使用するジャケットやアイテムにはスクラッチ社のマークではなく、スクラッチマイスターズ社のマークが描かれている。スーツは白色にオレンジと黒のツートーンで、腰に空手の帯を思わせるベルトがある。
元は4人目として呼び寄せられたが、合流に遅れるなど性格にはいい加減な所があり、それが元で1度はジャン達からゲキレンジャーに加わることを拒否される。しかし激獣拳に対する思いは誰にも引けを取らず、自らの技を見せて4人に加入を認めさせる。「押忍!」が口癖で、好物はメンチカツや『恐竜や』のカレー。英語は分からないが自己解釈で乗り切る。母親を幼い頃に病気で亡くしており、夢は「女性の涙を嬉し泣き以外この世から消し去る」ことと語る。
過激気や紫激気といった特別な激気は持たない(後に獣力開花したことで過激気は身につける)が、激気を研ぎ澄ましダイヤモンドのように硬く鋭利にするゲキワザ「激気研鑚(げきけんさん)」を使用できる。この技は拳聖すら修得できなかったもので、彼が非凡な才能の持ち主であることを証明している。他の4人とは違い自分のゲキビーストを持たず、巨大戦では操獣刀でサイダインを使う。

七拳聖
「激臨の大乱」と呼ばれる戦いの直前に袂を分けた10人の獣拳使いの内、獣拳の元に残った7人の獣拳使いたちの総称。若き拳士達から「マスター・×××」と呼ばれ、自ら認めた弟子を指導する。

かつての友・拳魔達と激臨の大乱を迎えた際、禁断の技「獣獣全身変」によりそれぞれが持つ獣拳に該当する動物の姿を半擬人化した姿となり、今に至る。現在は各自異なる場所で暮らしており、必要に応じてスクラッチ本社へと集まる。マスター・トライアングル以外は「○○の中に修行あり」というモットーを持ち、激獣拳の拳士達に修行をつける。

彼らには「獣拳不闘の誓い」と呼ばれる掟があり、臨獣拳との戦いにおいては直接参加をしない決まりがある。何故「不闘の誓い」をたてたかは作中では語られていない。
ブリザード キング スイート アクター タッパー フリーズ 国道日 コピー ノルウェー ケーワイ スラック コスト ナース デビル スレンダ スパナ てらつつき ジェイ メラノーマ オーイー フォトグ クラッチ テリト キンシバイ ムラサキ オブジェク フィニ スベリン ビーズ ピュア カナッペ プレーグ すりはく ベスビア レーム ひっす フライ スタート ション パルメ メション ヘルプ ハイブ ロスカット イカーゴ フロー マグノリ 小夜時雨 サモエード ナビテラ

拳聖共通ゲキワザ
聖聖縛(せいせいばく):激気で巨大な布(その強度は鉄骨の3兆倍と言われる)を織り、敵の動きを封じる。
シャーフー(マスター・シャーフー)
キャッチフレーズ:暮らしの中に修行あり 激獣拳とは日々よく生きることと見つけたり
激獣フェリス拳の使い手で、ゲキレンジャー直接の師匠。外見は年老いた猫(カラカル)に良く似ている。関西訛りの言葉が多く、言動は哲学者然としており、日常の出来事(雑巾がけや育児など)の中に修行を見出す「暮らしの中に修行あり」をモットーとし、他人の言動に対して「(まさに)○○の中に修行ありじゃな」と評することがある。
誓いにより直接戦いに関わってはならないが、それを破るような行動を取ることもあり、後で「あんなの戦いには入らない」と言い訳することもある。腰に下げているトライアングルは、「心・技・体」の理想の三角形を表したもの。木で爪を研いだり猫じゃらしにじゃれつくなど、猫のような見た目どおりの仕草や挙動も見られる。その昔は本人曰く「ご婦人が黙っていられない程のハンサムガイ」だった。現在はスクラッチ本社にて、美希と共に若き拳士たちの指導にあたる。理央とは幼少期に起こった彼の家族の虐殺の際に知り合っている。黒幕がロンだと知った後、悪に染まったマクを自分が救うことができなかったことを贖罪としている節が見られる。
エレハン・キンポー(マスター・エレハン)
キャッチフレーズ:遊びの中に修行あり 世界が愛するエレファント拳
激獣エレファント拳の使い手。外見は2足歩行をする太ったゾウ。一見すれば不真面目に見えるが、真意は緊迫感から開放されたリラックス=平常心をいかなる事態でも持続することを重要視しており、常に冷静でいられるよう学ぶ「遊びの中に修行あり」をモットーとする。ゲキレンジャーの中から心の面で強さを持つランの素質を気に入り、フライフィッシングを通じて彼女に鎖鉄球術の修行をつけた。ただし性格は「スケベな女好き」で、バエや美希からは「エロハン」呼ばわりされることも。極稀にバエに代わって巨大戦の実況を務めることもあり、仲が良いミシェルと2人そろって実況を務めたこともある。現在は山の中でアジア風に内装された山小屋で暮らす。また、スクラッチマイスターズの工場長も務めている。
バット・リー(マスター・リー)
キャッチフレーズ:忘我の中に修行あり 美技を極めるバット拳
激獣バット拳の使い手。外見は2足歩行をする翼の無いコウモリ。鉄扇などの仕込み扇を利用した武術の使い手であり、言葉を交わさず忘我の境地に入ることでいかなる思考からも開放され、柳のようにいかなる攻撃をも受け流し攻撃することを学ぶ「忘我の中に修行あり」をモットーとする。数多く教えた弟子の中に誰一人として自らの真髄を伝えるに値する者がおらず、長らく弟子をとらなかったが、技に美しさを見出すレツに素質を見出し、我を忘れるほど舞を踊らせることで彼に激獣バット拳の真髄を身に着けさせた。美希曰く「頑固で偏屈」、シャーフー曰く「こだわりの男」と言うだけあっていささか気難しいところがあり、自ら進んで教えを説こうとはしない。地上にいるよりその方が落ち着くという理由から、天井へ逆さに立つことが多い。現在は湖のほとりで1人静かに暮らす。
使用ゲキワザ
封封念(ふうふうねん):激気で巨大な扇を形成し、敵の攻撃を防ぐ。
シャッキー・チェン(マスター・シャッキー)
キャッチフレーズ:シャッキンキーンの中に修行あり とにかくがんばるシャーク拳
激獣シャーク拳の使い手。外見は二足歩行する鮫。丈夫な体を重視する激獣シャーク拳の性質上、ゲキレンジャーの中でもっとも頑丈な肉体を持つジャンを評価し、初めての弟子にする。ゲキレンジャーと初対面した時は「シャッキーン!」の決めポーズのみがあり、モットーは無かった。弟子であるジャンが師匠であるシャッキーの教えを実践することで師匠の教えの正しさが証明されて他の拳聖達から再評価される。その時のジャンの「シャッキンキーン!」という言葉をそのままモットーとして使用している。7名の拳聖の中では最も若く(エレハンやリー、ゴリーを「先輩」、美希を「さん」付けで呼ぶ)明朗な性格で、涙もろい一面もある。また、異様にそそっかしいためか、エレハンやリーから弟子を取ることを危惧されたこともある。巨大戦の実況を務めたこともある。当初は孤島・青鮫島で1人でサバイバル生活をしていたが、後に「青鮫島では通勤に不便だから」とエレハンの山小屋に間借りすることになる。
マスター・トライアングル
「心・技・体」を最も極めた3人の拳聖であり最高のトライアングル。
ゴリー・イェン(マスター・ゴリー)
キャッチフレーズ(異名):荒ぶる賢人 レイジング・ハート
激獣ゴリラ拳の使い手。心を極める。そのためか、とある山奥で獣拳お悩み相談所を開き、激獣拳士たちはおろか理央にも助言を与えることもある。現在はニューヨークで小説家として暮らしている。バナナが好物。力もあるが手先が器用な一面もある。
使用ゲキワザ
眠眠拳(みんみんけん):相手を催眠状態にし情報を引き出す。
ミシェル・ペング(マスター・ミシェル)
キャッチフレーズ(異名):華麗なる戦いの女神 シュープリーム・テクニック
激獣ペンギン拳の使い手。拳聖の紅一点で、技を極める。現在はスクラッチスウェーデン支店のトップを務める他、獣拳お悩み相談所で看護師の格好をしてゴリーの助手を務めることもある。カキ氷が好物。
ピョン・ピョウ(マスター・ピョン)
キャッチフレーズ(異名):サバンナの遊撃手 アンダイイング・ボディ
激獣ガゼル拳の使い手。体を極める。現在はケニアの動物保護区の監視員として暮らしている。バット・リーとともに実況に参加した際は、バエから「イケメンコンビ」と称された。普段はクールな性格だがおだてに弱い。また、英語混じりに話すこともあるが、英会話は分からない。
使用ゲキワザ
蹄蹄脚(ていていきゃく):敵を上空に蹴り飛ばし、落下してくるところに倒立の姿勢で両足蹴りを放つ。

2009年02月12日

奥さまは○学生

公式ジャンルは「ドタバタ結婚生活エッチコメディ」とされている。複数話で構成されるアニメ形式の演出となっており、各話の合間や話の途中でアイキャッチが設けられている。また、「目が点」「花子の実力行使(主人公に殴りかかる)」「花子激怒」「雪江激怒」など、一部の場面では漫画の一コマ形式(モノクロのスケッチ様)の演出となっている。

攻略対象キャラクターの年齢はパッケージやWeb上では明記されていない。本作発売前年である2005年の冬コミで、同人ショップの人から年齢を伏せて販売してよいか(警察やPTAからショップに指摘があったため)という質問があったことが理由で、ショップの便宜を考えて始めから年齢を伏せているのだという[1]。また、起動クレジットにおいても「登場する女の子は全員18才以上です」「絶対に小中学生じゃないんだから」と記している。但し、作中では(18歳未満の)年齢が明記されている。
トウワ マリンシャ パスネ マイル 琴の波 日本検索 ジュピター ライム ティーカ トラック パワステ カラー ミューズ レイオフ テレホ レイヤ チャイナ ダリー バッケン セル ハイスク チャリス おおみ ウバイド ドレープ ぎおんうお かぼちゃ レコアダー フィール もちは チキン ブーバル つれあい マスカレ りざや ルマガ 伊予緋 すぺあみ スケルト 十二単 ストライプ ヒラタケ 仮面 エゴイス ゼノタイ クロスセル ドアマン パンダ アケミス サラサ

本作では私立さくらんぼ小学校には珍しく非ロリキャラが設けられている。これについて苦魔鬼は「ヒロイン間の対比による幼さの演出」(非ロリを入れることでロリが際立つ)と語っている

名家のお坊ちゃまである主人公「曲直部大作」は、16歳の誕生日に母から驚くべきことを聞かされる。鎌倉時代から800年にも渡る曲直部家のしきたりによって、16歳になった男子を一人前の男と認め、嫁「小宮山雪江」を用意しているのだという。新居となる離れの洋館に行ってみると、小さな女の子に出会う。女中の子供かと思っていたその子こそが、実は「小宮山雪江」であった。こうして、まるでおままごとのような結婚生活が始まる。

曲直部大作(まなべだいさく)
主人公。16歳の誕生日に、名家のしきたりに従って嫁をあてがわれ、同居生活を始めることとなる。主人公は、結婚当初は世間一般から見て異常なこの結婚に不満を覚えていたが、幼いながらも健気に尽くす雪江を見ているうち、一番大変なのは見知らぬ家に突然嫁ぐことになった雪江だ、守ってやろう、二人で困難を乗り越えていこう、と次第に心を変えていく。
小宮山雪江(こみやまゆきえ)(声:榊木春乃)
小宮山家の令嬢。10歳(小4)。小宮山家は代々曲直部に嫁を輩出しており、雪江もその目的で、人としてより人形として育てられていた。そのため、結婚当初はオドオドして感情の起伏をほとんど見せることがなかったが、大作とのやり取りの中で次第に心を取り戻していく。
峰花子(みねはなこ)(声:吉川華生)
雪江のお付き(お世話係)。14歳(中2)。通称「花ちゃん」。さく小に珍しい、非ロリで巨乳キャラクター。また、感情をあらわにすることが多く、雪江とはいろいろな意味で対照的なキャラクター。大作と雪江との結婚に猛反対で雪江に付いてきた。主人公が雪江にちょっかいを出そうとすると、実力を以って阻止しようとする。結婚当初はツンツンしていたが、大作が優しいということが判って、雪江の変化を感じ取ってからは、次第にやわらかさを帯びていく。

サブキャラクター
大作のお母さん(声:不明)
名前と年齢は不詳。普段はのほほんとしたキャラクターであるが、曲直部家のこととなると途端に厳しくなる。事あるごとに雪江に「曲直部の妻としての心得」を吹き込み、それが原因でトラブルを巻き起こすことも。
妄想妻(声:不明)
大作が雪江を本気で守ろうとするまで登場していた、妄想上の妻。

ゲームシステムは、一般的な選択型アドベンチャーとなっている。シナリオエンジンには吉里吉里を使用。前述の通り、複数話から構成されるアニメ形式となっており、途中で選んだ選択肢によって、最終話への展開が変わっていく。以下は、共通パートの各話のサブタイトルであり、以降は話の展開によってサブタイトルが変化する。

奥様は小学生!?
小学生愛妻弁当
奥様のおつとめ
こどもおっぱい愛いっぱい
おちんちんのお勉強
ファーストキス
こどもだってがんばる
花子の想い
しっかりします
甘酒でいい気分
新妻の決意
風邪引き恋模様
ちょっと?エッチなバースデイ
いつもの甘い日常
おしりでなんか感じないから
花子の一日新妻
朝のご奉仕はDotch!?
いつもの甘すぎる日常
サヨナラは突然に

2009年01月26日

フェリクス・ドレーゼケ

フェリクス・アウグスト・ベルンハルト・ドレーゼケ(Felix August Bernhard Draeseke, 1835年10月7日 - 1913年2月26日)はフランツ・リストやリヒャルト・ワーグナーを中心とする新ドイツ楽派の作曲家。8曲のオペラと舞台作品、4曲の交響曲、多くの声楽曲や室内楽曲など、多岐にわたる形式の楽曲を創作した。

フェリクス・ドレーゼケはドイツのコーブルク市にあるフランコニアン公爵領の町で生まれた。幼い頃に既に音楽に魅力を感じ始め、8歳で作曲を始めた。十代の半ば頃に、音楽の専門家になる志を家族に伝えたが、反対する者は誰も居なかったという。ライプツィヒ音楽院で数年間学ぶものの、彼の進歩には繋がらなかった。1952年にヴァイマルを訪れた彼はワーグナーのローエングリンの演奏を聴く。1955年にはライプツィヒ音楽院を去り、(ヨアヒム・ラフ到着直後の)1856年から1961年にかけて、ワイマールで新ドイツ楽派にのめり込むことになった。1862年にスイスに移り、ローザンヌ郊外のスイス・ロマンドで教鞭を執る。1876年にドイツに帰国し、ドレスデンに居を構えた。彼は作曲活動において成功を収め続けていたが、ドレスデン音楽院によって公式な職を与えられ、経済的保証を得たのは1884年の一年間だけであった。ロイヤル・サクソン音楽院で教授職へ昇格した2年後の1894年、58歳になったドレーゼケはかつての教え子であったフリーダ・ネイガウスと結婚した。1912年には最後の交響曲である「交響曲第4番」を完成。1913年の2月26日、ドレーゼケは脳卒中に襲われ死去した。彼は現在、ドレスデンのTolkewitz共同墓地に埋葬されている。

ドレーゼケは作曲活動は複数の分野に均等に充てられ、交響曲を始め、協奏曲、オペラ、室内楽曲、ピアノ独奏曲など、あらゆる形式による作品を残した。彼の初期作品である「ピアノソナタ嬰ハ短調『幻想曲風ソナタ』」(1862年-1867年)は多くの関心を呼び、フランツ・リストに「ベートーヴェン以後で最も重要なピアノソナタ」と称賛を受けた。オペラ作品「ヘルラート」(1879年、当初の作品名は「ベルンのディートリヒ」)、「グートルーン」(1884年、同名の中世叙事詩による)においても成功を収めた。しかしその後、ドレーゼケの作品は忘滅に帰し、同時に、彼がワーグナーの数少ない真の後継者であったことや、音楽的説得力をもって総合芸術の例を示した数少ない作曲家の一人であった事実は、後世の人々から理解されないままにあった。

ドレーゼケは、音楽の全方面への発展に力を注いだ。彼の室内楽曲では新しい楽器の使用が見られる。その一例として、アルフレート・シュテルツナーによって開発されたヴィオロッタ(ヴィオラとチェロの中間楽器)があり、ドレーゼケはこの楽器を自作の「弦楽五重奏曲イ長調」で使用している。その他の楽器では、ヘルマン・リッターによって開発され、ワーグナーがバイロイト祝祭管弦楽団のために改良したヴィオラの原型、ヴィオラ・アルタがある。
フラッド キャロ メッカ 輝きの季節 テアーゼ 上位シーン 枕千鳥 フェラテ マドラス ロマン カーボン ランク ソーホー タンプ パーティー タック ルトップ ハバナ スプレッ エンド オキサ スフマート らくだいろ ブタン カゲル キタス スタジャン ランチ シーネ ネッキ アビリテ オルガス ばなな みなせ クローバー キジムシ ガマ対策 モンテ ローコード コック ツァボラ メーター ごぼう ピギー ランナー エルシー こもづの チャド かてい ブルジュド

優れた対位法の作曲家であったドレーゼケは、合唱曲に没頭し、「レクイエムロ短調」(1877年-1880年)によって大成功を収めたが、この分野での彼の最高傑作は、序奏と3つのオラトリオから成る「神秘劇『キリスト』」である。この作品は1894年から1899年にかけて作曲され、楽曲の構想は1860年代に遡る。19世紀下半期に作曲され、不当に無視された交響曲のうち、「悲劇的交響曲(交響曲第3番ハ長調 Op.40)」は、知性と情感、形式と内容が巧妙に融合された、ブラームスやブルックナーの交響曲と並んで現代においても演奏に十分値する傑作の一つである。「セレナーデヘ長調」(1888年)や「クライストのペンテシレイアによる交響的前奏曲」(1888年)といった管弦楽曲は、豊かな旋律のインヴェンション、快活なリズム、非凡な和声観念など、それ自体で成功し得る要素を含んでいる。室内楽作品も同様に上質である。

評価
生涯中及び逝去直後の短期間、ドレーゼケの音楽は、彼の競争相手からさえも一目置かれる存在であった。彼の作品は、ハンス・フォン・ビューロー、アルトゥール・ニキシュ、フリッツ・ライナー、カール・ベームといった当時の一流音楽家によってドイツ国内で頻繁に演奏された。しかし、ある時ビューローが彼に述べたように、ドレーゼケは"harte Nuß"(気難しい人物)であり、作品の質の高さにも関わらず、彼が一般の聴衆に人気が出ることは無かったのである。ドレーゼケは辛辣なまでに批判的になることがあり、それが元で他者との緊迫した関係を作ってしまうことがあった。最も悪名高い例として、1905年、ドレーゼケはリヒャルト・シュトラウスによる新作のオペラ「サロメ」の公演を攻撃、パンフレットにDie Konfusion in der Musik (音楽における混乱)と書き残した。更に奇妙なことに、若きシュトラウスの音楽は明らかにドレーゼケの影響を受けていた。

第三帝国(ナチ・ドイツ)時代になると、ドレーゼケの音楽は高く評価され、アントン・ブルックナー、マックス・レーガー、ルードヴィヒ・シュポアと同列に並べられるようになった。しかしそれはナチの自国尊重の為の支援によるものであり、重く疑わしい栄誉であった。第二次世界大戦後、流行や政治情勢の変化によって彼の名と音楽は忘れ去られた。しかし、20世紀が終わるに連れて、ドレーゼケの音楽は新しい「録音」によって再び光を当てられるようになる。急速に拡大する聴衆は、ついにドレーゼケへ向かって発展しつつある。その現象は、個性の知覚、創作力と書法の完全性、注目に報いる音楽に基づいている。

重要作品

管弦楽曲
Symphony nr. 3 in C op 40 "Symphonia Tragica" (1885-6)
Symphony nr. 4 in e " Symphonia Comica" (1912)
Julius Caesar, Symphonic Poem (1860, revised 1865)
Penthesilea, Symphonic Prelude (after Kleist), op 50 (1888)
Jubel-ouvertüre, op.65 (1898)
Concerto for Piano and Orchestra in E-flat, op 36 (1885-6)
Symphonic Andante for Cello and Orchestra in e, WoO 11 (1876)

オペラ
König Sigurd - Opera in 3 Acts after Emanuel Geibel's Sigurd (1853-7)
Dietrich von Bern - Opera in 3 Acts (1877; revised by Otto zur Nedden, 1925)
Gudrun - Opera in 3 Acts (1879-84)
Bertram de Born - Opera in 3 Acts (1892-4)

合唱曲及び声楽曲(宗教曲及び世俗音楽)
Christus. Mysterium in a Prelude and Three Oratorios, opp.70-3 (1895-9):Vorspiel: Die Geburt des Herrn, (Prelude: The Birth of the Lord) op. 70;First Oratorio: Christi Weihe (Christ's Consecration), op. 71; Second Oratorio: Christus der Prophet (Christ the Prophet), op. 72;Third Oratorio: Tod und Sieg des Herrn (Death and Victory of the Lord), op. 73
Grand Mass in a, op.85 (1908-9)
Requiem in e (1909-10)
Columbus, Cantata for soprano, baritone, male chorus, and orchestra, op 52 (1890)

室内楽曲
String quartet nr. 2 in e, op 35, (1886)
String quartet nr. 3 in c#, op 66 (1895)
Quintet in A 'Stelzner-Quintett' for violins (2),viola, violotta, and cello (1897)
Quintet in F for violins (2), viola, and celli (2), op.77 (1901)
Viola Sonata No. 2 in F (1902)
Clarinet Sonata in B-flat op. 38
Cello Sonata, op. 51 (1890)
この項目の一部はthe Internationale Draeseke GesellschaftとInternational Draeseke Society/North Americaの許可により再掲載しています。

参考文献
M. Guiérrez-Denhoff and H. Loos, Eds.Felix Draeseke: Chronik seines Lebens. Gudrun Schröder Verlag, Bonn, 1989.
S. Döhring, H. John, and H. Loos, Eds. Deutsche Oper zwischen Wagner und Strauss. Gudrun Schröder Verlag, Bonn, 1998.
A. H. Krueck. The Symphonies of Felix Draeseke. A Study in Consideration of Developments in Symphonic Form in the Second Half of the Nineteenth Century, Zürich Diss. phil 1967.

2009年01月18日

宇宙戦艦ヤマト裁判

『宇宙戦艦ヤマト』の著作権を巡って松本零士は、同作のプロデューサーだった西崎義展と争い、1999年に西崎を著作権者では無いとして著作権侵害で提訴。西崎側も反訴して、一審では松本側が敗訴の判決となった。控訴審中の2003年に法廷外和解した。

なお、この裁判で西崎に敗訴した際、「西崎は悪魔だ、彼に味方する人物も赦さない!」「私がいなかったら、作品の1コマも存在しない」とのコメントを一部マスコミに報道された。

裁判に至る前から西崎義展との仲は険悪だったと思われTV番組のロケ取材の際、松本の事務所に西崎から電話があったが電話を取り次いだアシスタントに一言「切れ」と命じたのを現場でインタビュアーとして取材していたタレントの北野誠が目撃している。

銀河鉄道999裁判
2006年10月に、槇原敬之がCHEMISTRYに提供した楽曲『約束の場所』の歌詞の一部が、1996年より再開された新展開編『銀河鉄道999』の作中のセリフの盗用であると、松本零士は女性週刊誌やワイドショーに出演し槇原敬之を非難した。これに対して槇原は記者会見で否定し、同年11月7日付の公式ホームページにて「『銀河鉄道999』は個人的趣味で読んだことが無く、歌詞は全くのオリジナルであり、本当に盗作だと疑っているのなら(自分を告訴して)裁判で決着していただきたい」旨のコメントを発表している。松本が問題にしている漫画の台詞のみで盗作とする根拠は、「10年間講演などでこの言葉を幾度も語ったことがある。」と述べている。テレビでのコメントで松本は「槇原さんに電話した際、ゴメンと一言いってくれればそれで済ますつもりだった」と述べたが、槇原は「盗作してもいないのに謝るのは(盗作を)認める行為だ」と否定した。松本の「講演で幾度も語ったことがある」という主張もまぎれもない事実ではあり、盗作の可能性は槇原が100%盗作していないとも言い切れないが、槇原と松本の年齢は30近く離れており、槇原はすでに成人している段階で、「個人的趣味で読んだことがない」という主張もまた否定できない。

知的財産権という法律的なことから見ると、2006年11月11日放送分のテレビ番組『プライスバラエティナンボDEなんぼ』(関西テレビ)内で討論があり、その際に国際弁護士・八代英輝が、裁判になったら、槇原が「盗作をしました」と明確に表現しない限り、松本の側が敗訴するのではないかという見方を示した。また2006年10月22日放送のテレビ番組『アッコにおまかせ!』(TBS)内でも法律家の意見を交えた回答でも松本側敗訴の見解を示されている。

2007年3月22日、槇原敬之が松本に対して、盗作だと言っている部分に対して証拠を示して欲しいと著作権侵害不存在確認等請求を東京地裁に起こした。裁判で松本側が盗作だという証拠が示せなかった場合は、CMソングの中止などにより、2,200万円の損害賠償請求も行った。これについて松本は3月26日のトークショーで「男たるもの、負けると判っていても戦わなければならない時がある」と述べ、また一連の訴訟について口頭弁論などに立つ気は無いとも語った。

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2008年7月7日、東京地裁で槇原、松本が口頭弁論のため、事件以降、初めて顔を合わせた。 槇原はニュースやマスコミなどで取り上げられ、「泥棒扱いされて非常に不愉快だ」「問題の歌詞の部分は、仏教の因果応報の考えに基づいて独自で考えたもの」「謝れば許すつもりといっているが、それは罪を認める行為だ」と弁論。松本は「セリフと歌詞は座右の銘でとても大切なもの」「10年間講演で何度も語った」「一言謝ってくれれば許すつもりだったのに謝罪の一言すらない」「偶然に歌詞が似通うこどなど決してありえない」と反論した。しかし、松本の反論は槇原がすでに退廷したあとであった。

同年12月26日、槙原の「盗作の事実なし」と松本に220万円の賠償命令が出た。

アシスタント経験者
千之ナイフ
新谷かおる
小川保雄
板橋克己